前回 の続き。ニック・チェイター『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』の訳者の片方、長谷川珈です。
6. チェイター教授は、人工知能はすごいって言ってるの? それとも人工知能は駄目だって言ってるの? よくわかんねんだが?
これはですねー、両義的なわけです。具体的には p. 21 , p. 24, p. 302 とかですね。人工知能すげえ!ってのと、人間の脳には敵わねぇから!ってのと両方言っているので、本書のなかでの人工知能の位置づけがちょっと判りにくいかもしれない。
そもそも人工知能(AI)というのはチェイター教授が(心理学・認知科学的な方面から)専門とする領域の一つでもあるわけで、昨今の人工知能の発展、とくに機械学習の一手法である深層学習(ディープラーニング)の驚異的進化を認めていないわけがありません。なので本書では、一方では、人工知能は特定の領域では人間の能力を超えちゃってるほど凄い、と当然褒めている。そして本書の主題である「心とは何か」「知性とは何か」という心理学的・認知科学的・哲学的な大問題としても、深層学習などの「コネクショニスト的な」計算モデル(つまり生物の神経細胞の集合体の協働的活動を参考にして考案されたアルゴリズム)が研究者たちにより色々提案されてて、それが知性を発揮しているかのごとく動作することが確かめられてるから、それと照らし合わせることで、脳がどういう計算を行っているかもけっこう推測がつくようになってきたんだ!と評価しているわけです。
でも他方では、深層学習などのAIは、あくまで従来型コンピューターの上で疑似的に協働式の計算をエミュレートしているだけだ、とも言っている。つまり多数のニューロンが本当に一斉に計算してるんじゃなくて、一つ(とかせいぜい数個)のCPUが超高速に極小のワンステップを一秒に何十億回も順々に実行している。それに対し、脳は十億個のニューロンがゆっくりとしかし同時に協力し合って巨大なワンステップを一秒にほんの数回とか実行している。だからAIと脳は、いまだに全然違うといえば違う。実際、AIがものすごく進化したとはいえ単機能AIばっかで、人間の知性のような汎用性・柔軟性・創造性はいまだにないじゃないか、というわけです。
まとめると、「協働式の計算」を疑似的に用いたAIが成功してるから、脳が行っている「協働式の計算」の仕組みもアタリがついてきた!ってのがAIに対する本書の肯定的態度。でもやっぱ現状のコンピューターと脳はぜんぜん仕組みが違うし、柔軟さと創造性ではとうてい人間に敵わねぇから!ってのが否定的態度です(否定的というか、AIはそこまで人間の知性に似てないし、できないことや今後も当分できなそうなことはあるよ、っていう留保的態度ですね)。
ただし、いわゆる「汎用人工知能」、つまり、あらゆる知的作業を人間なみに行う人工知能を開発するという試みに関しては、半世紀が費やされて何の進展もなかったよ!とにべもなく切り捨てていますね。人工知能すごいよ!と褒めているのは、あくまで、いま大流行中の深層学習に代表されるような特定のタスクに取り組むAIです。
さて、以上のように本書はAIに対して肯定・否定の両面があります。でも訳者の片方である私に言わせてもらうと、面白いのは、この否定的態度の部分は逆だったとしても、つまりチェイター教授が「AIはまだ、いうほど人間っぽくないけど、このまますっごく発展すれば人間の知性と同じになるかもね」と書いていたとしても、本書の全体にはあまり影響しなかったんじゃないかなっていう点です。
本書の主題はあくまで「人間の心ってのはこういう仕組みだ」という仮説なわけで、現状のAIの延長線上でそれが模倣できるか否か?って点は、わりとあやふやな未来予測です。おまけみたいな部分です。絶対無理だよ、とまでは断言されてない。ただ教授の予測としては、今のAIの延長上には人間のような柔軟性や創造性はないと思うよ、と言っているのです。
でもこのへんの解釈は人それぞれかな。「チェイター教授はAIと人間は原理的に全く違うと言っている! AIは決して人間のような想像力は持てないのだ!」と読んだって別にいいのかも。チェイター教授の本書以外の書きものを読むと、やっぱりそっちの意見みたいです。いまあるAIは、脳のしくみ(ニューラルネット)を模しているとはいえ、あくまで従来型コンピュータの上で作られてるのだから、生物的知性である脳とは根本的に構造も原理も異なるのだ、という点に強調がある。
7. フロイトをばっさり否定してるけど、ほんとに否定できてる?
さてはおまえ高校生のときフロイト、マルクス、ニーチェとか読んでたタイプだろ! ラカンとかも読んじゃってるだろ! そうです、私もそこはちょっと怪しいと思っています。つっても私は少ししかフロイト読んだことないんですけどね……だって難しいんだもん。
私のうろ覚えではフロイトは「無意識」のことを、意識的な思考を変形させるという間接的な形でしか存在を推定できない何か、みたいな、そうとう間接的な存在として慎重に記述していた気がします。なので、チェイター教授の本書が、フロイト本人に対する痛撃となっているかというと、どうなのか。イドとエゴとスーパーエゴとか、父を殺し母と寝る欲望とかっていうのも、フロイトはどれだけ実体的に考えていたのか。あくまで比喩として語っていたのではないか。フロイト本人が言った「無意識」とチェイター教授が言う「記憶の痕跡」は実は意外と同じ、までありうるのでは!? このへんは私にはわからないので、フロイトに詳しい方に判断をお任せするしかありません。
でも俗流フロイト主義に対してはダイレクトな痛撃になっていると思います。無意識の欲望ってどこにあるんですかー? 心理学実験で出てきたことないんですけどー? 心には表層しかない(マインド・イズ・フラット)という証拠の方がよっぽどあるんですけどー?と教授は煽ってるわけです。で、実験的証拠なんてないであろう俗流フロイト主義は、分が悪いのでは。まあ今どきフロイト主義者がどれだけいるのかって話でもありますが、「心の奥に隠された思考や欲望がある」という発想一般のことをフロイト主義と言っているのだとすれば、そうとう広範囲な批判ですね。
ただ、フロイト本人であろうと俗流フロイト主義であろうと、心の問題をなんとか理解したり解決したいという要望に応えようとはしているわけで、チェイター教授の本書から心の悩みを理解する方法とか神経症の治療法とかいきなりは出てこないでしょうから、そういう意味ではちょっと担当分野が違うかもですね。いやでも、そもそも精神分析で心の問題って解決するんだっけ……?
うーんぐでぐでしてきた。私のよく知らない領域なので、ここまでにします。
8. 2色を同時に認識することはできないってまじ!?
どうなんですかね!? 本書で紹介されている最も衝撃的な実験ではないでしょうか。それを示したファンとパシュラーの実験は2007年(p. 97 注8 参照)のようですから、その分野の人ならとっくに知っている事実なのでしょうけれども。日本でこの実験してる研究者がいたら聞いてみたいです。いやネット上でこの実験を体験できるサイトとか動画ないかな……ないか。まあそういうサイトくらい自分で作ってみろって話かもしれませんが私にはそのスキルはありません。うーむでも気になる。
9. 「いかなる瞬間においても、自分は正確には一体どこを視ているのかを言うことさえ驚くほど難しい」(p. 253)。は? 自分がどこを見てるかくらいわかってんだが?
これはですねー、たしかに、たとえばこの文章を読んでいるとき、どの文字をいま視ているかってのはかなりはっきり自覚できてますよね。それはそうです。でも、p. 81 の図8 の右のように、単語の出だしのあたりをぴょんぴょんと急速に視線が非連続にジャンプしてるのを意識しているのか、あるいは同図左のように誰かの顔を見ているとき自分の視線が目、鼻、輪郭などをびゅんびゅん往復していることを自覚してるのかといえば、ぜんぜんしてないわけです。あるいは p. 94 の二色を同時に見る実験でも、自分が一色ずつ順々に色彩を把握してるなんて全く気付いてない。それなのに、「いま視ている対象(文章、顔、色彩など)がしっかり見えている」という幻想だけは抱いている(本書で何度も言及される「大いなる錯覚」の別バージョンなわけです)。
つまり、「正確には注意の中心はピンポイントでどこなのか」、「眼球はどれくらいびゅんびゅん動き回っているのか」、そしてほぼ同じ箇所を視ている場合でさえ「どの様相(例えば、どの色)に注目しているのか」という三重くらいの意味で、やっぱり「正確にはどこを視ているのか」はきわめて漠然としていて、正確な自覚なんてないのだと思います。
10. なんか、ロックオンは解釈のあとに作動する(p. 74)とか急に言ってて、わけわかんないんだが?
そーです、ものすごくわかりにくいことをさらっと言ってますね! でもその箇所が本書の一番クリティカルに面白いポイントかもしれません。つまりあなたはとても鋭い。
本書の中心概念である「思考のサイクル」は、「ロックオン+オーガナイズ+メイクセンス」の営みである、と要約できると思います。興味の対象となるひと組の情報に着目(ロックオン)し、その情報を整理統合(オーガナイズ)して、最終的に何らかの感覚的な解釈を創り出す(メイクセンスする)。だから意識ってのは常に必ず、何らかのセンス(感覚、意味)を自覚するということである。
本書で「意味をとる」「意味をなす」などと訳したのがこの「メイクセンス」です。翻訳初稿では「メイクセンスする」とルビを振っていたのですが、あまりに目にうるさかったので結局ルビは削除しました。make sense というのは「納得がいく」「腑に落ちる」「意味が通る」といったニュアンスをもつ英語であり、「あっ確かにそういうことだよなあ」という相槌としても用いられる面白い頻出句です。で、この「メイクセンス(意味をとる、意味をなす、感覚的に納得できる)」が本書では「解釈する」とか「意味を押し付ける」とほぼ同義に用いられています。メイクセンスが次々と繰り返されるのが思考のサイクルであり、意識するとはセンス(感覚、意味)をメイクする(作る)ことである、というわけです。本書は『心とはメイクセンスである』みたいなタイトルでもよかったかもしれない、と私は思うくらいです。
ところが p. 74 で「注意力のロックオン処理は、これらの事例では、脳が画像を徹底的に解釈したあとに作動している」と、唐突に言っています。えっ、と思うわけです。思考のサイクルは、
ロックオン → オーガナイズ → メイクセンス
という順序だと思ってなんとなく読んでたのに、場合によっては
解釈(つまりメイクセンス) → ロックオン
という順序にもなる、とここで言っているわけです。一体どういうことなのか。
これは p. 210 で思考のサイクル一回分のしくみを説明しているところとか、p. 211 注10 とか、p. 213 注11 とかをよく読むと、どうやら、ロックオン+オーガナイズ+メイクセンスというのは、必ずしも順序関係ではなく、同時進行しているっぽいのです。つまり最終的な解釈が意識に浮かぶぎりぎり直前まで、どこにロックオンしようかな、どうやってオーガナイズしようかな、どうメイクセンスしようかなというのが同時進行している。そして p. 74 で言われてるのは、入力が固定されてしまい、オーガナイズとメイクセンスがとっくに何通りかに限定されてしまった場合は、どのメイクセンスを最終的な意識にしようかなというロックオン処理が最後にくることもある、ということじゃないかと思います。いや、もっと言えば、ロックオン・オーガナイズ・メイクセンスはもともと不可分に混然一体で進行する処理なのであり、それを「思考のサイクル」と呼んでいる、ということかもしれません。
まーしかし、とってもわかりにくい箇所ですね。私の解釈が妥当かどうかも、そんなに自信がありません。でも本書を神経科学の本として読んだ場合も、哲学書として読んだ場合も、ここは突っつきがいのある非常に面白い論点だと思います。
うん、よくありそうな疑問点を10個挙げましたが、なんかまだ書き足りないな……しかしキリがない。続きを書くかもしれませんが、それはもっとさらにすごく細かい細かい話になっていくと思います。なのでとりあえずいったん終わりにします。あっなんか質問とか感想あったらどうぞです。コメ欄でもツイッターでもいいので。
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ニック・チェイター『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』講談社選書メチエ、高橋達二・長谷川珈 訳
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