訳語を中心とした解説 チェイター『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』

※随時加筆しています。二度目に読む人がいたら内容が変わっているかもしれない、というかどんどん長くなってます。

おかげさまで『ここつく』(チェイター『心はこうして創られる』の略)は売れ行き好調です。

といっても、一般向けとはいえあくまで学術書なので、何万部も売れているわけではありませんけれども。

えーともかく、非常に面白くて読み甲斐のある本ですから、そして「認知科学のノーベル賞」と呼ばれるラメルハート賞も受賞決定した ほど権威ある研究者による書物ですから、原著と邦訳を両方読んでみようという方が日本に5人……いや2人くらいはいるに違いありません。その方々に向けて、訳者の片方である私がメモを残しておこうと思います。つまり原著のわかりにくかったところや訳しにくかったところを、訳語の説明を中心として解説します。

訳者と同じ苦労をしてもらうのは忍びないので……っていうのと、「ここはこう訳してもよかったんじゃない?」みたいなところを言い訳したいということも少しあります。

うん、まあさっさと行きましょう。そうとう細かい話になりますので、原著を読もうという人以外には全然面白くないと思います。すでに書いた二本の解説ブログ

チェイター『心はこうして創られる』 みんなが疑問に思いそうなとこの解説(訳者の片方より)1/2
チェイター『心はこうして創られる』 みんなが疑問に思いそうなとこの解説(訳者の片方より)2/2

とかぶっている内容もありますが悪しからず。あと、むやみに長い記事になります。

 

・思考のサイクル  cycle of thought (初出 原著 p. 9 邦訳 p. 18 )

本書の中心概念ですね。本書で「思考 thought」は、感情や知覚まで含む広い意味の場合があります。とくにこの「cycle of thought」の thought は意識に浮かぶ全てを生み出す営み、つまり思考・感情・知覚の全てを明らかに含んでいます。その意味では「思い」と訳してもよかったかもしれませんが(そう訳した箇所もあります)、でも日本語の「思い」は感情寄りなことが多い。仕方ないので無難に「思考」と訳しました。まあ「思考」という語に「思」と「考」の両方が含まれてるんだからいいでしょう。あるいは「想念」くらいがよかったか? でも「思いのサイクル」とか「想念のサイクル」じゃ語感が締まらないんだよね、やっぱ「思考のサイクル」じゃないと解りにくい。

で、この「思考のサイクル」はもちろんチェイター教授が本書で打ち出した新概念ですが、あまりオリジナリティは主張されていませんね。俺の新説だ!と喧伝してもよかったはずですが、第七章の注9で言及されているナイサーの「知覚サイクル理論」など既存学説の改良版にすぎないということなのでしょう。奥ゆかしいですね。

 

・心の深みという錯覚 the illusion of mental depth (初出 原著 p. 31 邦訳 p. 47)

これは既存の心理学用語である「大いなる錯覚 the grand illusion」(原 p. 51 邦 p. 76)の拡張版です。「大いなる錯覚」は、視覚世界をまるごと細やかに知覚できているという錯覚、という既存の心理学用語ですね。チェイター教授は、心には奥行きがあってぎっしり豊かに内容が詰まっているという錯覚もそこに足して、概念を拡張した。「大いなる錯覚」とその別バージョンをすべてひっくるめた概念、つまり「外界であろうと内面であろうと、あたかも奥深さや豊富さや全体性や確実性があるかのように感じるのは錯覚にすぎないんだ」というチェイター教授の独自用語がこの「心の深みという錯覚(幻想)」です。後述しますが illusion は錯覚とも幻想とも訳せますね。

言葉の響きもいいし、大風呂敷でよい概念だと思います。でも本文の中ではあまり前面に打ち出されていないというか、ちょっと埋もれがちですね。認知科学・心理学用語として広く使われるようになってほしいんだけどな。いや、原著(イギリス版)のサブタイトルに入ってるし第一部タイトルでもあるから目立ってないとは言えないんだけど……本文中でも、もうちょっと目立たせてもよかったのでは。

ちなみに原著はアメリカ版とイギリス版でサブタイトルが異なります。アメリカ版(イェール大学出版、2018年、ハードカバー)は「The Mind is Flat – The Remarkable Shallowness of the Improvising Brain(マインド・イズ・フラット 即興する脳の驚くべき浅さ)」、イギリス版(ペンギンブックス、2019年、ペーパーバック)は「The Mind is Flat – The Illusion of Mental Depth and the Improvised Mind(マインド・イズ・フラット 心の深みという錯覚と即興される心)」。

でも内容は全く一緒です。というかイギリス版(ペーパーバック)はアメリカ版(ハードカバー)のたんなる縮小コピーで、組版が全く同じです。日本語の本って、ハードカバーと文庫版では組版をし直しますよね? 英語のペーパーバックは単なる縮小コピーが普通なのでしょうか? 私はそこまで意識したことがなかったのですが、今回たまたま気付いてびっくりしました。

 

・内なる託宣者(オラクル) inner oracle (初出 原著 p. 30 邦訳 p. 37)

これは心理学用語でいう「直観理論」(直観物理、直感心理、直観倫理など)などの擬人化ですね。つまり、直観理論とか、心の奥の信念とか動機とか選好性とか、「心の奥に前もって形作られ、理路整然・首尾一貫していて、いざとなったときに答えをくれると想定されている何か」をすべてひっくるめて擬人化したものです。まあそれは著者によってすぐさま「詐欺師、夢想家、作話症患者」にすぎない、とこっぴどく否定されるわけですが、これは「オラクルなんていない」という否定なのか「オラクルはいるけどいい加減なことばっかり言う奴だ」という否定なのか、やや曖昧な感じもします。でも要するに擬人化・比喩に過ぎないので、あまり追求しても仕方ない。「心の奥にオラクルなんていねえし、それっぽいものがいたとしても実態は矛盾だらけ穴だらけだよ!」ということでしょう。

本書前半で登場し、後半忘れたころにもちらっと再登場するので、ちょっと戸惑うかもしれませんが、チェイター教授が本書ではそういう擬人化を用いたというだけのことです。訳者としてもやや意味合いが掴み切れなかったのでチェイター教授に問い合わせたところ、「デルフォイの巫女のような存在。こちらからは窺い知れないプロセスによって答えをくれる仕組みということ。計算科学でいうオラクルをイメージしてもよい」みたいな答えでした。おお、なるほど明快だ。チェイター教授は認知科学者だから、計算科学方面の用語を比喩として活用してるわけですね。

訳語に一番悩んだところです。巫女様、かんなぎ、神官、イタコ、神託……いろいろ考えられますが、無難に「託宣者」と訳しました。「巫女様」の方がわかりやすかったかなと今でも悩んでいますが、冒頭でアンナがなんだか馬鹿にされ(いや、人間はみんなそうだという話なのでアンナが馬鹿にされているのではないんだけど)、続いて巫女様もインチキだということになると、なんだか本書がやたらと女性を蔑視してるみたいな印象になりそうで嫌だったんですよね。そのへんは訳者のエゴなんですが、でも必要な配慮でもある……と思う。

なぜかというと本書は、女性蔑視どころか、男女どちらでもよい一般人称は全員女性です。つまり例えば裁判の場面の「う」さんも(邦訳ではわかりませんが)実は女性です。つまり原著では he でも she でもどっちでもいい場面(一般人称)はぜんぶ she が使われているのです。これがどういうことかというと、ジェンダーのバランスに非常に配慮した本なのです。バランスを取るといっても、一章ごとに she と he を交替するとか、単称の they を使うとか、色んな方式があると思いますが、本書は「昔は全員 he の本ばっかりだったんだから、いまは全員 she の本があってもいいじゃん!」という、過激派的なバランスの取り方なわけですね、たぶん。なのに日本語訳したらやたらと女性を蔑んでる本みたいな印象になるのはよろしくない……よね? うーんどうだろ?

まあでも「巫女様」「神官」「神託者」とか訳してもよかったかもしれない。翻訳ってむずかしい。

 

・エンジン engine (初出 原著 p. 10 邦訳 p.18)

本書では、脳はエンジン(原 p. 8 邦 p. 18)、心はエンジン(原 p. 145 邦 p. 200)、思考のサイクルはエンジン(原 p. 153 邦 p. 212)、と、わりと何度もこの比喩が出てきます。エンジンって車のエンジンってこと? それとも駆動機関一般みたいなこと?とちょっとわかりにくかった。なので著者に訊いてしまいました。そしたら「駆動機関一般のことだが、もちろん車のエンジンはその代表。ゲームエンジンとかを想像してもいい」みたいな答えでした。おお、なるほど。ゲームエンジンはわかりやすいですね。常にブンブン回っている基礎的な仕組みがあって、臨機応変なその都度のアクションはその上で処理されている、と。これは確かに、計算科学方面の人やプログラマならすぐにピンときた表現なのかもしれません。

 

・一歩(ワンステップ) one step (初出 原著 p. 11 邦訳 p. 21)

邦訳では「一歩(ワンステップ)」とルビした箇所が多いです。なぜかというと、本書で「ワンステップ」という語には、日常語でいう「一度にひとつ」「順番に、段階的に」という意味での「一歩」と、計算科学でいう「ステップ」つまりコンピューターのワンクロックぶんの演算という意味の両方が込められているからですね。つまり、

一、一歩ずつ順序よく論証をつなげていく日常的な(あるいはそれに基づいた学問的な)説明
一、一秒に何十億回もの小さなワンステップを連ねることで一つの問題を解くデジタル計算機
一、巨大なワンステップで途方もなく複雑な問題をぱっと解いてしまう脳の驚異的な働き(ただし一秒にほんの数回ほどしか実行できない)
という三種の計算が対比されているわけです。

うーんどうだろ、わかりにくかったかなあ。でも計算科学方面の人ならおそらく「ステップ」というのは計算ステップのことであるとピンときたのではないでしょうか。それを邦訳で一般読者に伝えるにはどうしたらいいのか、悩ましいところです。

 

・記憶の痕跡 memory trace (初出 原著 p. 9 邦訳 p. 18)

これは訳語がよくない。でもそもそも原語がよくない。本書でチェイター教授が言いたいのは、記憶なんて存在しない、ってことです。いや正確に言うと、脳が意識へ何を出力したかという過去の痕跡は残されるし活用されるという意味では記憶っぽいものはあるけど、それ以外に記憶という仕組み(どこかに丸ごと仕舞われて丸ごと取り出される完成品じみたひとまとまりの情報)なんて存在しないよ、と言っているわけです。

共訳者の高橋先生は「パソコンみたいに計算機構と保存機構に分かれてるんじゃなくて、脳は計算と記憶が一体不可分ってことじゃないかな」みたいに言っていました。おお、わかりやすい。

なのに「記憶の痕跡」じゃ、記憶というものの存在を前提した語になっている。「出力痕跡」とか「意識痕跡」みたいな新規命名をしないと本書の主張が伝わらないじゃん。でも「memory trace 記憶痕跡」ってのが既存の心理学用語なので、そちらとのつながりを重視したということなのかなと思います。

 

・錯覚/幻想 illusion (初出 原著 p. 7 邦訳 p. 14)

当たり前ですがイリュージョンは錯覚とも訳せますし幻想とも訳せます。ほかにも「錯視」「まぼろし」「まやかし」とか、いろんなふうに訳しました。

「幻想」と訳すと、なんだか1980年代の思想書の再来みたいですね。なんでも幻想だと喝破するのが解放的だったあのころ……。でも本書は認知科学(や心理学や神経科学)の本ですから、あれもこれも幻想だと見破ったって何にもならない。錯覚というのは客観と主観にギャップがあるということであり、そこで客観というのは何を基準にしていて、その錯覚が生じる理由は……と説明しなくちゃいけない。つまり幻想だと喝破することに重点があるのではなく、どういうメカニズムの錯覚なのかという科学的説明に重点がある。

まあそんなわけで、「幻想」と訳した方が格好いいところは幻想と訳し、「錯覚」と訳すべきところはそう訳したつもりです。ぜんぶ「錯覚」と訳してもよかったけど、それはそれで日本語として不自然かな。

 

・感覚、五感、感情、気持ち sense, emotion, feeling

このへんの語は悩ましかった。邦訳ではほぼノールールで文脈ごとに「感情、気持ち、感覚、感じ、実感、五感」などと訳し分けています。feeling(s) を「感じ、感情、気持ち、実感」などと訳す一方で sense(s) も「感じ、実感、五感」などと訳している。つまり訳語がかぶっちゃってる。でもしょうがない、原文がそうなんだもん。emotion(情緒、情念、情動、感動) と feeling(感情、気持ち、感じ) も訳し分けるべきなのか迷いましたが、どうやら同義に用いられてるなあと判断して、どっちも「感情」と訳したりしています。

 

・五感 senses (初出 原著 p. 39 邦訳 p. 60 )

上の項でもちょっと触れましたが、本書では senses は「もろもろの感覚」を意味するときは主に「五感」と訳しました(ほかにも色々と訳し分けていますが)。でも本当は「五感」は訳しすぎです。だって一般的に五感というのは「視、聴、触、味、嗅」の五つですが、それ以外の感覚だっていっぱいあります。平衡感覚、眠気、努力感、緊張感、満腹感、空腹感、倦怠感、焦燥感、時間感覚、遠い未来の感覚、遠い過去の感覚、記憶の中の感覚、想像の中の感覚、想像で創り出した映像、言葉の切れ端の想起……。つまり自覚的な意識に浮かぶことのできる全ての感覚です。だから「諸感覚」とか「さまざまな感覚」と訳した方が正確です。(いやでも、外界を知るための感覚はいわゆる五感だけなのかな? でも例えば平衡感覚だって外界の知覚だよなあ? うーんどうだろ?)

しかし本書が例示に用いているのは視覚を中心とした極めて輪郭明瞭な感覚ですから、「諸感覚」「感覚」「感じ」じゃ、ぼんやりした訳文になってわけがわからない。仕方がないので「五感」と訳さざるを得ませんでした。でも実際には、特に体内感覚や、内言として呟かれる言葉の切れ端、イメージや記憶のかけらなど、「意識することのできるあらゆる感覚」のことを「五感」と言っているのだと思って読んでいただけたらと思います。

「五感」というのは辞書的には「感覚の総称」とも記載されているし、本書でいう感覚は体内感覚や内語なども含むと本文に明記されているので、精読すればわかるといえばわかるのですが、「五感」という訳語が目立つことによって本書が皮相的な誤解をされやすくなったかもしれない(五感以外の感覚はない、みたいに)。人間の感覚って別に五感だけじゃないのにね。うーん、翻訳というのは悩ましいものです。「五感」だけじゃなくて「百感」みたいな日本語もあったらよかったのに。

いま思いついちゃったけど、senses=「五感その他の感覚」って訳し方もあったかもしんない。ちょっと長たらしいけど、文脈によってはそう訳せばよかったかな。うーむむ。

 

・豊か rich (初出 原著 p.8 邦訳)

この語がいちばん訳せなかった! いや本当にさ、計算科学方面の rich って語、訳せます? 「リッチテキスト」とかそのまま日本語になってるじゃないですか。訳せないんですよ。なのに原著で45回も登場している語です。

本訳書では「豊か」「ぎっしり豊か」「内容豊富」「濃(こま)やか」「緻密」「詳細」などと苦労して訳し分けていますが、いったい全体、rich とはどういう意味なのかといえば、もちろん「poor = 貧しい、乏しい、しみったれた、骨と皮だけの」の反対ですね。あるいは料理でいえばリッチな料理とは油っこい料理です。「この料理はちょっとリッチすぎて僕には胃もたれするよ」などと言うことができます。いやそれだけじゃわからん。

計算科学方面でいうリッチというのは、もちろんデータの側を形容する語でもある。つまり「リッチテキスト」は、たんに文字が並んだだけのデータではなく、フォントやレイアウトや罫線などで豊かに飾り付けられたテキストですね。これをさらに認知科学でいうと、例えば視覚なら「ここに赤があり、そこに緑がある」みたいな単なる画素の集まりがプアーな視覚情報で、「マリオがルイージと協力プレイをしている」みたいな意味に富んだ映像がリッチな視覚情報です。つまり人間にとっての有意味さが豊かに付加されている。

でもリッチというのは、主体の側の動作や能力を形容する英語でもあります。リッチな認識とか、リッチな判断とかいう用法もある。一体どういうことなのか。これは、リッチというのは「潤沢な計算資源を前提にしている」という意味合いもあるからです。つまり「計算主体側に潤沢な計算リソース(計算力、メモリー、計算時間など)があることを前提とした情報の取り扱い」ですね。テレビ画面で飛んだり跳ねたりするマリオは、認識主体にプアーな認識能力しかなかったら、プアーな情報でしかない。人間はリッチな知覚能力があるから「マリオがゴールを目指している」というリッチな認識ができるわけです(このへんは ツイート してたらリプで教わったことです。ありがとうございます)。そういわれてみると、リッチな(油っこい)料理というのも、コテコテに油やバターを使った料理という意味でもあり、食べる人が若くて消化能力が高いことを前提した料理という意味でもある……かもしれない。それと同じですね(同じか?)

というわけで長くなりましたが、計算科学方面でいう「リッチ rich」は、「認識主体が潤沢な計算リソースを有していることを前提として、便利で活用しがいのある意味付けが豊富に付加された情報または情報処理の」という形容詞です。「リッチテキスト」もそうですね。たんなるアスキーコード以上に便利な情報がぜいたくに付加されているということでもあるし、複雑に飾り付けられたデータを扱うだけの計算リソースが計算機側に十分あることを前提としたテキスト、ということでもある。

でもそんなのうまいこと訳語にならないよ! というわけで上記のように「豊か」という語を軸としつつ工夫して訳しました。なんかもっとうまい訳し方があるのかもしれないけど、どうしても思いつかなかった。

 

・意味をとる/意味をなす/意味が通る/納得がいく make sense (初出 原著 p. 12 邦訳 p. 22)

メイクセンスというのは「意味がわかる」「腑に落ちる」「感覚的に納得できる」といったニュアンスの慣用句であり、きわめて頻出する日常英語ですね。「あっ、そう言われたらわかるけどさー」「それはそうだな、わかるよ」というカジュアルな相槌としても用いられるほどです。もう少し正確にいうと、「私は感覚的に分かったよ、納得したよ」という主観的な感じを「それは意味をなすね」と対象の特性であるかのように客観っぽく述べるところに、ちょっと気取ったようなユーモアが漂う表現でもあります。きわめてよく使われる慣用句であり、例えば小説によっては1ページごとに使われてるんじゃないかってくらい頻出します(こんなに使われるようになったのは最近なのかな?どうなんでしょう)。

で、このカジュアルな慣用句が本書においては重大な役割を担っている。本書の中心概念「思考のサイクル」は、「ロックオン(着目)+オーガナイズ(整理統合)+メイクセンス(意味を納得する)」と整理して構わないと思います。「思考のサイクル」の全体が解釈や意味付けの営みなんだけど、その最終的な意味付けのところに「メイクセンス」がある。まあ実際には、ロックオンとオーガナイズとメイクセンスは画然と分離できない一体的なプロセスかもしれないので、あまり用語的に厳密な話だと思わないでほしいのですが、このプロセスの最終段階である「メイクセンス」は「解釈」や「意味付け」とだいたい同義に用いられている。そして「思考のサイクル」とは常に必ず、一瞬ごとにひとつの「センス(感覚、意味)」を「メイク(創り出す)」して納得する営みであり、それ以外には何もしていない、と言っている。本書の中心概念である「思考のサイクル」とは、脳がメイクセンスを次々行っていく営みであり、心とか意識ってのはそのプロセスの最終結果が自覚されることでしかない、というわけです。

これは非常に明快かつ包括的な図式であって、まさにヒューム『人性論』のアップデート版って感じではないでしょうか。いや、私はヒュームはぺらぺらとしか読んでないんですけどね(ちゃんと読まないとな…)。まあともかく、本書は『メイクセンスの心理学』とか『脳の目的はメイクセンスである』みたいなタイトルでもよかったんじゃないか、と私は思うくらいです。

本書の翻訳初稿では「意味をとる/意味をなす/意味が通る」に「メイクセンス」とルビを振っていたのですが、「意味をと(メイクセンスす)る」、というふうに、ルビに送り仮名がどうしても混じってしまい、あまりに目に煩いのでやめにしました。なので「意味をとる」などとあっさりした訳文になってしまいましたが、ちょっとニュアンスが足りなかったなー。「make sense=意味を納得する」くらいに、もうちょっと強く訳せばよかったかな……という気もします。

 

・直観 common sense (初出 原著 p. 7 邦訳 p. 15)

本書では「直観」という語を軸に、「直観的理解」「日常的感覚」「通念」「世間一般の発想」などと訳しました。なぜコモンセンスを「常識」と訳さなかったかというと、本書の文脈では「常識」ではなく「直観的判断力」だからです。もちろん認知科学の文脈でも、common sense は「常識」と訳すべき場合(一般知識的なことを言っているとき)もあれば、「直観」と訳すべき場合(本能的判断に近いとき)もあります。あくまで文脈しだいです。

日本語の「常識」と英語のコモンセンスは全く違うものであり、そこに木村敏のあれがあれなもんだからさあ……っていうのをすっごい長文で解説したいんですけどそれはまたの機会にします。

 

・現象学 phenomenology (原著 p. 50 邦訳 p. 17注4、p. 70)

本書では主に「現象学」と訳しました。なので、現象学をけちょんけちょんに貶している本みたいになってしまった。でもどうなんですかね、フェノメノロジーというのは「現象論」(そう訳した箇所もあります)とか「現象のしかた、現象のありかた、意識へのあらわれかた」とも訳せる。心を研究するときに現象論的な方法(つまり内観に基づく心理学)なんて駄目なんだ、と本書は言っているのであって、日本語で「現象学」と言ったときに思い浮かぶフッサール哲学とかに当てはまることを言っているのかどうか、私には判断のつかないところです。

でも例えば phenomenological psychology といえば「現象学的心理学」が訳語なわけであって、やっぱ認知科学や心理学の文脈で phenomenology と出てきたら「現象学」が基本的な訳語だと思うんですよね。歴史的にも哲学でいう現象学と地続きなんじゃないかなあ。

しかし念のため哲学者の方々にはここでお詫びをしておきます。ごめんね。フッサールとかに詳しい人に言わせたら、哲学でいう現象学と心理学でいう現象論はぜんぜん違うから!ってこともあるかもしれない。そうだとしたら本書では「現象学」とは訳さず、「現象論」「現象のあり方」「心への現れかた」などと訳すべきだったのかも? どうなんでしょうね?

 

・深く説明できるという錯覚 the illusion of mental depth (初出 原著 p. 27 邦訳 p. 40)

これは日本では既に「説明深度の錯覚」という訳語が定着していると思います(例えばスローマン&ファーンバック 『知ってるつもり 無知の科学』土方奈美訳、早川書房、2018年)。そして学術語としてはその方が簡潔かつ抽象的でよいと思います。ただ本書の文脈では「深く説明できるという錯覚」と訳さないと話の流れがわかりにくいと判断しただけす。既存訳語にはまったく異論ございません。

 

・着目(ロックオン) lock onto (初出 原著 p. 9 邦訳 p. 18 )

邦訳では「着目(ロックオン)」と訳しましたが、一箇所だけ「照準合わせ(ロックオン)」とも訳しました。原著では「ロックオントゥ」なのですが、日本語ではやはり「ロックオン」とルビするしかなかった。「照準(ロックオン)」と訳してもよかったかな…?

 

 

あとは細かいことを少々。

 

・創作、でっち上げ invent

本書ではだいたい「創作」とか「でっち上げ」と訳しました。invent は「発明」じゃないの?と思うかもしれませんが、私もそう思いました。でも訳してるうちに「発明」と訳すべきところがどんどん減って、「創作」(肯定的なニュアンスのとき)や「でっち上げ」(否定的なニュアンスのとき)で置き換えていったら、最終的に「発明」は一箇所もなくなってしまいました。

 

・被験者 participants, people

ご存じの方も多いかもしれませんが、近年の英語圏では被験者 subjects という語を避け(実験者よりも劣位であるという響きがあるため)、participants と(またはたんに people などと)言い換える傾向があります。日本語の文献もそれに対応して、「被験者」ではなく「実験参加者」と表記する傾向が現在はあると思います。
しかし本訳書では、原文が participants や people の場合も、むしろ積極的に「被験者」と訳しました。その方がはるかに話が分かりやすくなるからです。
たとえばボールのパス回しの実験で被験者を「実験参加者」と表現したら、パス回しの演者も「実験参加者」なのかどうか、日本の一般読者にはさっぱりわからないことでしょう。むしろ一般的な日本語の感覚では、実験者や実験者が雇った人もみんな「実験参加者」じゃないですか?と私は思います。「被験者」と記せばそうした混乱は生じません。
subjects という語を避けるのは特殊英語的な問題であり、日本語の「被験者」にはネガティブな意味がもともとありません(日本心理学会の倫理ガイドにもそう明記されています)。したがってむしろ「被験者」とはっきり訳すべきなのだ……と判断しました。むろん翻訳は文脈がすべてですから、この翻訳ではそう判断したというだけであり、一般論として主張するつもりはありませんけれども。

 

・ほら話、インチキ hoax

hoax というのは、ほら話というよりは、やや手の込んだいたずら、詐欺の仕掛け、といった感じです。「ほら話」よりはもうちょっと長時間騙し続けて、何か誤った行動に誘導するニュアンスです。日本語の「担ぐ」がぴったりだと思うんですが、「担ぐ」は「担ぎ」と名詞形にはならないんですよね。なんでだろ。なので、動詞的に「担ぐ」と訳したり、名詞的に「ほら話」「インチキ」と訳したり、いろいろ工夫しました。

 

・奥はない、深部はない、薄っぺら、ぺちゃんこ flat

タイトルの The Mind is Flat にも含まれているこの語、邦訳では「薄っぺら」と訳したところもありますが、本当は flat に薄っぺらという意味はあんまりなくて、「奥行きがない」「起伏がない」「平坦」「平板」「厚みがなくてぺしゃんこ」「目に見えているそのままで、それ以外に含みとか裏とかなんにもない」なんだよなあ……。まあ surface と言い換えられている箇所もあるので、「薄っぺら」と訳しても不当ではないと判断しました。「平坦」とか訳すと「心が落ち着いている」みたいな語感になってしまうという問題もある。本書の主張に沿って、わかりやすくなるようにいろいろと訳し分けました。

 

・知覚の「掴みの強さ grabbiness」 (原著 p. 235 邦訳 p. 203注1)

まあ注の中で一回出てきた語にすぎないんですけど、これが訳せなくて何日も検索しまくりました。何が何を掴むってこと? そしたら結局ですね、これは「急激な感覚刺激の変化(例えば光の瞬きなど)は、知覚システムを掴みやすい」ことを指すケヴィン・オリガンの造語です。なんだそりゃ。知覚システムが知覚対象の変化を掴みがちということなら、知覚システムの「掴み癖」とでも訳すのですが、知覚対象のほうが知覚システムを掴みがちというのはどう日本語にすればいいのか。これは「構ってちゃん」ですね。知覚刺激は構ってちゃんなので人間の脳の注意システムをガッと掴んで(grab して)自分に向けさせる 。それ以外に訳語が思いつかない。でも本書のなかで突然「知覚の構ってちゃん性 grabbiness」なんて出てきたらわけわからないよね。なので、知覚の「掴みの強さ grabbiness」という曖昧な訳語で誤魔化しました。
誤魔化したっていうかもう誤訳だよねこれ。訳文だけみたら、どうみても知覚システムが知覚対象を掴むって意味だと思っちゃうもん。でもそもそも原語がおかしいんだからしょうがないじゃん! ケヴィンの造語センスが悪い。「グラビ―=目を惹く」という俗語はあるにせよ、英語ネイティブだって grabbiness と聞いたら同じ誤解をするんじゃないの。
ということで、grabbiness は本当は「構ってちゃん性」とでも訳すのが正しいんだけど、「掴みの強さ」と実質的に誤訳しました。どうしたらいいんだろねこれ。「グラビ―さ」と誤魔化す手もあったか…? いやキャッチ―ならカタカナ語としてわかるけどグラビ―はわからない。ほんとどうしようもない。

 

・channel 経路、通路

「経路」とか「通路」と訳したけど、ちょっと違うんだよな…。意識と外界とは驚くほどかぼそいつながりしかない、ということを本書は言いたいわけで、この「つながり、通り道、信号送信路、入出路、伝送路」をどう訳語にすればいいのか…。チャネル(チャンネル)というのは海峡とか水路とか運河のイメージなんだよなー。あるいはそこから転じた計算機用語としてのチャンネルなら、伝達路とか通信回路ですね。「経路、通路」じゃ、どちらのニュアンスもうまく出ていない。
英語って本当に海事用語を語源とする言葉が多い。とくに重要語というか、決め台詞になるような格好いい言葉に海事由来が多い気がする。本書ではほかにも chart を「測量地図を描く」とか訳したりしてますが、ちがうんだよー、チャート(前人未踏の海域を踏破し測量して既知の航路としていく)ってのはもっとかっこいい単語なんだよ!と悩みつつも、仕方なく地味な訳文になってしまっています。日本だってイギリスと同じくらい海洋国家のはずなんだけど、日本語って海事由来の言葉が少なくないですか? なんでだろ。こういう海事由来の英単語ってどうにも日本語にうまく訳せない。まあ愚痴なんですけどね。

 

・a turn (of cycle of though) (思考のサイクルの)一回転

「ターン」ってすごい単純な語だけど、原著を何回も通読してやっと「一回転」と訳していいな、という確信を得た。いやさあ、そう思ったあとなら cycle の a turn ってのは当然一回転のことでしょ、ってわかるけど、初稿くらいの段階では「 a turn って何だよ… one cycle と同義なのどうなの? 半回転とか四分の一回転でも a turn なのか? なんなのもう!」って頭おかしくなりそうだった。難しい本あるあるだけど、というか全ての翻訳の宿命だけど、一冊全体の話の流れがわかったあとじゃなきゃ一語も訳せない、みたいなとこある。つまり全部訳し終わるまでは一語も訳せない。なにそれ。ひでえパラドクスだよ。

 

・mind 心、精神

認知科学では mind は基本的に「心」と訳されるので、本書もほぼそれに従っています。でもさ、そもそも mind と「こころ」って同じなんですかね? ってか同じなわけがない。英語で “Would you mind…? (お願いできるかな)” という言い回しがありますが、日本語で「心して頂けたら」なんて言ったら慇懃無礼な脅迫みたいですね。まあそれは些末な例ですが、私の語感だと、mind はやや動詞的、プロセス的、一回的、理知的なニュアンスが勝り、「心」はやや名詞的、実体的、持続的、感情的なニュアンスが勝る気がする。まーでもここは根本的すぎて触れたくない。mind は心なのかなーなんて悩み始めたら本書の翻訳は一行も進まなかったでしょう。『こころはマインドか?』みたいなタイトルで比較思想の専門書を誰かが書いてくれるのを待つしかないくらいの大問題です。

 

 

最後に、これ誤訳だよね?みたいなとこについて。

 

・文学の深さ、心の浅さ literary depths, mental shallows

序章タイトルですね。depths, shallows と複数形(すなわち可算名詞)ですから、これは「深さ」「浅さ」という抽象的な意味よりは、「深瀬(または深海)」「浅瀬」という具象的イメージじゃないかな。でも「文学の深海、心の浅瀬」じゃちょっとわけわかんないので、仕方なく「深さ、浅さ」と訳した。まあ、文学も心もこの世に複数存在するんだから「深いところ、浅いところ」の複数形と解釈しても間違いではないだろう、ということで勘弁してほしい。まー正直こういう「ほんとは誤訳なんだけどしゃあないか…」みたいな妥協はいくらでもあります。

 

・パチンコ玉 ball bearings (邦訳 p. 43)

おそらく読者の過半数が「イギリスにパチンコはねぇだろ?!」と突っ込んだに違いありません。でもさあ、ものすごく悩んだうえでの訳語選択なんですよ。理系の人、工具が好きな人、自転車を自分で組み上げる人ならベアリングは身近かもしれませんが、実は日本の読者の半分くらいは「ベアリングって何?」みたいなもんじゃないでしょうか。その点、パチンコ玉なら100%理解してもらえます。そしてあくまで物理現象を説明している場面ですから、イギリスにパチンコはねえよっていう文化的文脈は無視していい、たぶん。すごく悩ましかったけど、ほかならぬ理系の研究者である共訳者が「パチンコ玉でいいでしょ」とあっさり言ったので、パチンコ玉と訳すことにしました。

 

・チェス世界王者の奇妙な事件 the strange case of chess

第十一章第一節のタイトルですね。この case は「事件」じゃなくて裁判用語の「主張(本人視点での説明)」だろうと思いますが、むろん The Strange Case of Dr. Jekyll (ジキル博士とハイド氏)のもじりでもある。恰好よく訳すには無理やり「事件」と解してもいいかなと思ったんですが、いま思うと「主張」とか「説明」でもよかったかな…?
本書は章題や小見出しの多くが、本や映画のタイトルのもじりです。でも邦訳には残念ながらあまり反映させることができませんでした。その理由は一つには、なんのもじりかなーと検索で調べると、似たようなタイトルの作品が複数ヒットしてしまったりして、元ネタがいま一つ判然としないものが多い。もう一つには、元ネタがわかっても実は大して訳に反映できない。たとえば第四章タイトルの「移り気な想像力 the inconstant imagination」はシェイクスピア作品の台詞 inconstant moon 変わりやすい月=移り気な恋人(あるいはそれをタイトルに採用したSF作品もあるようです)を意識していると思われますが、そう分かったからといって、邦訳ではそれは大してわかりはしないという…(わかる人にはわかるだろうけど)。さらにいうと、たとえ元ネタがわかり、それは日本語訳に活かせたとしても、その元ネタがかつて日本に紹介されたときは全く別の邦題をつけられていたりするわけで(洋モノあるあるですね)、そうすると元ネタを活かした訳し方に何の意味もない。
結局、元ネタがわかりやすいのは第四章第二節の小見出し「失われた世界 the lost world」くらいでしょうか…? いやそれすら、ジュラシック・パークの邦題は『ロストワールド』だったんだから、むしろ小見出しも「ロストワールド」とカタカナで訳すべきだったのか? でもそれじゃあなんだか唐突で、映画見てない人にはわけわからないし…。
まあそんな感じで、本書の章タイトルや小見出しの元ネタは、邦訳にはあまり反映されていません。できるだけ元ネタを拾おうとはしたんですけどね…。

 

・「熱い」とか「寒い」という感じもない (邦訳 p. 225)

別に誤訳じゃないんだけど、丁寧に訳しすぎたというか…。ここは最初に原文の意味がさっぱりわからず調べものに時間がかかって、難しい箇所だという印象を抱いてしまったせいで、くどくどと訳注を入れてしまった。英語の慣用句の語源なんて特に日本の読者が知りたい情報ではないんだから、ここは「『近いぞ』とか『まだ遠いなあ』と感じるわけでもない」くらいにあっさり訳せばよかった。しかも訳注がやや的外れだった可能性がある。「ホット、コールド」は確かに探しもの遊びの囃し声なんだけど、語源はおそらく狩りの獲物の匂い(や痕跡)が「まだ温かい」=獲物が近い、ということであり、したがって探し物遊びにかぎらず単に慣用句として「正解は近いぞ」といったニュアンスでも用いられている、かもしれない。どうせ訳注するならむしろそういう説明がよかったかなあ?

 

・ぴったりとした噛み合い coherence

本書は終盤になって急に コヒーレンス coherence がキーワード化します。意味とはコヒーレンスなのである、と。これを「ぴったりとした噛み合い」と訳しましたが、それはちょっと訳し過ぎじゃない?と言われたらその通りです。本当はたんに「噛み合っている、像をむすぶ、矛盾なく収まる」くらいの意味であって、「ぴったりと」とかぶせるのは訳者の解釈が入りすぎです。でも、これくらい大げさに訳さないと、どうにも話の流れが理解できない、と判断しました。
コヒーレンスは一般には「結束性」「首尾一貫性」などと訳されることが多いですが、一体どういうイメージなのか。
一つには、たとえば波ですね。音波とか光波とかが、個々別々の無数の波の重ね合わせであっても、波形や波長とか何らかの点でそろっていて、完全なばらばらでなく、これはいちおう一つのまとまった波って感じがするね、というときはコヒーレンス(結束性)がある、ということになる。あるいは、日本アニメの英訳字幕では、登場人物が泡を食って「あばばばば」などと言っているときは「incoherent babbling(支離滅裂な発話)」と字幕されるのが定番です。つまり、少なくとも言っていることの意味がわかるなら coherent ですが、発言内容以前に音声が最低限のいわば「像」を結んでいないなら incoherent と形容されるわけです。
もう一つのイメージとしては(あくまで私のイメージですが)、たとえば一つの物理現象があるとする。その現象は重力理論では説明できない。でも電磁気理論なら説明できる。ということはその現象もこの宇宙も別にカオスではない。破綻していない。まとまりがある。そういう、「あれではないとすればそれだろうから大丈夫、全体に破綻はない」というまとまりの感覚もコヒーレンス(首尾一貫性)です。
(あとは、分野によっては coherence と cohesion は別の概念だ、みたいな話もあるようですが、それはさすがに私の守備範囲外なので理解を諦めます。)

まあそんなこんなを考えあわせ、本書の話の流れでは、英英辞書にある「coherence =  fit together well(うまくぴったりとまとまる)」という説明を採用して、かつ、話の流れをわかりやすくするためにやや大げさに訳してよかろう、と判断しました。

 

 

まー訳語にまつわる解説をぜんぶ書いて行ったら本書そのものより厚くなっちゃうのでこれだけにします。なんかあったら質問してもらえたら。

 

前回の記事  チェイター『心はこうして創られる』 みんなが疑問に思いそうなとこの解説(訳者の片方より)2/2

前々回の記事 チェイター『心はこうして創られる』 みんなが疑問に思いそうなとこの解説(訳者の片方より)1/2

 

ニック・チェイター『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』高橋達二・長谷川珈 訳、講談社選書メチエ、2022年

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