さる2022年7月29日、認知科学のトップ会議である米国認知科学会大会(CogSci)にて、”認知科学のノーベル賞” ことラメルハート賞がニック・チェイター教授に贈られると発表されました。ラメルハート賞は毎年の授賞式の最後に翌年の受賞者が発表される習わしですので、チェイター教授への正式な授与は一年後の CogSci です(受賞記念講演が行われ、賞金10万ドルが贈られます)。
認知科学とは、知性(大きくいえば人間の心)のしくみを情報処理の観点から解明せんとする学際分野。人工知能研究・心理学・神経科学・言語学・哲学などの交差点として活況を呈しており、いま大きなブームとなっている人工知能と関係が深いこともあって産業界や一般社会からも注目を集める研究領域です。
認知科学に関連した賞はむろんこれ以外にもありますが、認知の基礎理論にかんしてはこのラメルハート賞が最も権威があります。ノーベル賞に相当する栄誉を認知科学に、との目的でもともと創設されたこともあり、「認知科学のノーベル賞」との呼称がそれなりに定着しているようです。
日本ではちょうど同月、チェイター教授の著書の初邦訳が発売されたばかり(ニック・チェイター『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』高橋達二・長谷川珈 訳、講談社選書メチエ、2022年)。偶然ながらまことにタイミングのよい出版となりました。
以下に、ラメルハート賞の 公式ページ(https://cognitivesciencesociety.org/rumelhart-prize/)から、翻訳許可を得て転載します。
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第23回ラメルハート賞
ニック・チェイター教授に授与決定
2022年7月29日 訳:長谷川珈
ニック・チェイター Nick Chater(ウォーリック大学経営大学院行動科学教授)
第23回(2023年)のデビッド・E・ラメルハート賞は、認知科学を支える根本原理を30年以上にわたり探求してきたニック・チェイターに贈られる。
その業績は推論や意思決定、そして言語の理解・獲得・進化から社会相互作用の仮想交渉理論に至るまで幅広く、そのいずれもが複数の認知領域の根幹となる原則に焦点を当てている。また公衆の科学理解や、認知科学・行動科学を公共政策あるいはビジネスの実践課題へ応用することにも大きく貢献した。
チェイターはエディンバラ大学、オックスフォード大学、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンを経て、現在はウォーリック大学経営大学院の行動科学教授。実験心理学の学士号をケンブリッジ大学にて取得、博士号をエディンバラ大学行動科学センターにて取得。その初期の仕事(マイク・オークスフォードとの共同研究)は、「人間が行う推論は実態としては不確実な推測であり、したがって人間の遂行能力の規範とすべき標準は確率論である」との観点を押し進めるものであった。それはやがて、ベイズ的立場からのウェイソン選択課題のモデル化、三段論法のモデル化、条件付き推論のモデル化へと展開された。
チェイターの関心が認知の一般原理に向けられていることは、認知システムは単純性を好むという主張の論証方法にも表れている。コルモゴロフ複雑性の数理を認知科学の問いに持ち込み、「単純さ」という概念の基礎を厳密に形式化することに貢献したのである。ベイズ則と、知覚の整理の単純性ベースの説明――この二つの双対性を形式的に証明するためにその手法を用い、一見競合する二つのアプローチをめぐる一世紀になんなんとする論争の枠組みの革新に手を貸したのだ。また、カテゴリー化(エマニュエル・ポトスとの共同研究)や言語獲得の諸相(アン・シューとの共同研究)についても、単純性ベースのモデル構築に貢献している。さらには、肯定的証拠からの学習という問題にも数学者ポール・ヴィターニとの一連の共著論文で取り組んでおり、これは帰納推論や言語習得の本性という根本問題と向き合う仕事である。
判断・意思決定の領域では、有力なモデルとなった「リスク選択のサンプリング意思決定(DbS)モデル」に代表されるチェイターの手法は、上のどちらでもない第三の一般原理から出発している。すなわち、人間の知覚判断や概念判断は本質的に比較に基づいていること(すなわち、規模表象の絶対尺度の欠如)である。この原理の基礎研究は、規模知覚の表象モデルとして結実した(ニール・スチュワート及びゴードン・ブラウンとの共同研究)。その観点に立脚するならば、古典的モデルである期待効用やその変種であるプロスペクト理論は、認知科学的に受け入れがたいものとなるのである。期待効用やプロスペクト理論とは異なり、チェイターの DbS モデルは「意思決定は値のサンプリングによってなされる」と主張する。このサンプリングは直接に環境から、ないしは記憶から行われ、当該の意思決定に関連した軸(確率や金額)に沿って一つの項をサンプルされた諸項と比較する。すると実は、プロスペクト理論の大部分はこのアプローチで再現可能であるばかりか、多くの新たな文脈効果(既知の文脈効果や、その後確認された文脈効果)をも生み出すことが判明したのである。
言語の獲得・理解・進化にも重要な貢献をなした。『Behavioural and Brain Sciences』誌掲載の二つの論文(モーテン・クリスチャンセンとの共著)で、まず、言語と文化の共進化の可能性に課された強い縛りを提示し、次いで、言語の(そして言語構造や言語理解の)特性のいかに多くが、認知のもう一つの一般原理(これも新たな原理である)に由来しうるかという概略を描いたのであった。その原理とはすなわち、「注意(アテンション)にはボトルネック(おおよそ逐次的にしか通れない狭い道)があり、言語もそのボトルネックをリアルタイムで通るほかない」という原理である。
直近の仕事では、チェイターはさらにもう一つの原理に取り組み始めた。その原理とは、社会相互作用およびコミュニケーション相互作用である。先行の理論家(ハーブ・クラーク、デビッド・ルイス、トーマス・シェリング、ポール・グライスなど)の仕事に立脚し、人間の相互作用について新たなモデルを考案しており、その根底をなす発想は、社会相互作用は「暗黙の」合意を通じて運用されている(誰が何をするのか、どんな行動が適切なのか、具体的状況において伝達用語がどんな意味を持つのか、など)、というものである。この暗黙の合意は「ことのさなかに on-the-fly」なされるのだけれども、次回のための先例ともなっていく。つまりそういった「仮想交渉」の創出(と適用)をチェイターは想定したのである。
チェイターは専門誌『Cognitive Science』『Psychological Review』『psychological Science』の編集委員を務めたほか、2010 年に米国認知科学会、2012 年には英国学士院のフェロー(特別研究員)に選出。研究調査コンサルタント会社「ディシジョン・テクノロジー」を共同創業したほか、イギリス政府の気候変動委員会の顧問も務めた。心理学の立場から日常生活や政治を探求する英国公共放送 BBC ラジオ 4 の連続番組「ヒューマン・ズー」の共同制作者・常任科学者も。この数年間に一般向け科学書を二冊上梓している(2017 年『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』〔講談社選書メチエ、邦訳 2022 年〕、および ”The Language Game”(モーテン・クリスチャンセンとの共著)〔未邦訳〕)。
主要著作
Christiansen, M. H., & Chater, N. (2022). The language game: How improvisation created language and changed the world. Basic Books.
Sanborn, A. N., Heller, K., Austerweil, J. L., & Chater, N. (2021). REFRESH: A new approach to modeling dimensional biases in perceptual similarity and categorization. Psychological review, 128(6), 1145.
Chater, N. (2018). The mind is flat: The remarkable shallowness of the improvising brain. Yale University Press.
〔邦訳『心はこうして創られる 「即興する脳」の心理学』高橋達二・長谷川珈 訳、講談社選書メチエ、2022 年〕
Christiansen, M. H., & Chater, N. (2016). The now-or-never bottleneck: A fundamental constraint on language. Behavioral and brain sciences, 39.
Tsetsos, K., Usher, M., & Chater, N. (2010). Preference reversal in multiattribute choice. Psychological review, 117(4), 1275.
Christiansen, M. H., & Chater, N. (2008). Language as shaped by the brain. Behavioral and brain sciences, 31(5), 489-509.
Oaksford, M., & Chater, N. (2007). Bayesian rationality: The probabilistic approach to human reasoning. Oxford University Press.
Stewart, N., Brown, G. D., & Chater, N. (2005). Absolute identification by relative judgment. Psychological review, 112(4), 881.
Chater, N., & Vit ́anyi, P. (2003). Simplicity: a unifying principle in cognitive science? Trends in cognitive sciences, 7(1), 19-22.
Chater, N. (1996). Reconciling simplicity and likelihood principles in perceptual organization. Psychological Review, 103(3), 566.
Oaksford, M., & Chater, N. (1994). A rational analysis of the selection task as optimal data selection. Psychological Review, 101(4), 608.
〔以上〕
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