株で兆った男――現代語訳・鈴木久五郎の告白記(その1)

 明治時代の伝説的投機家、鈴久(すずきゅう)こと鈴木久五郎。その瞬間最大資産は、物価の換算方法にもよりますが、現在の価値にして数百億円〜二兆円にも相当すると言われています。日露戦争中の明治三十八(1905)年に株を買い始め、戦勝による相場上昇で翌年末にその資産額は頂点に達する。しかし年明けて明治四十(1907)年の一月に相場は暴落、全財産を失ってしまう――

 ここに紹介するのは、鈴木久五郎自身による、雑誌『実業之世界』に掲載された三編の告白記のうち、第一番目のものです。

 その他の情報は末尾に置きました。

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 − 「ブロマガ」サービス終了により、ブログを移転しました。 この記事は、もとは 2014年8月20日に公開されたものです。

 − なるべく原文のままとして、最小限の現代語訳を施した。
 −(マルカッコ)は原文のまま。または、原文にあるフリガナを収めた。
 −〔四角いカッコ〕は、訳者による補足。
 − 原文で判読できない文字は□とした。
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実業之世界  第六巻第五号  (鈴久の回顧)

『私の失敗時代の回顧と楽天主義』


                         代議士 鈴木久五郎
〔鈴久は破産後の明治四十一年、衆議院議員に当選し一期を務めた〕
 

▼私がもし失敗しなかったら何をしたか

 外国に信託会社(フィナンシャル・ハウス)というものがある。これは悪い会社を治療する病院である。例えば、製糖会社が悲境に陥り、二百万円を注ぎ込めば治療ができるとすると、これを引受けて二百万円出して整理〔債務超過や支払不能の解消〕をしてやる。そして整理料として二百万円の利子と、そのほかに幾らか取る。私がもし失敗しなかったならば、この信託事業をやるつもりであった。その当時思ったのは、「景気の後には必ず不景気が来る。今は増資をしたり、新しい会社を起こしたりしているが、後日必ずこの反動が来るに違いない。つまり整理を要する会社が次々に出る。それを私が引き受けて、適当な人を派遣して整理してやる。そしてその報酬を得る」ということであった。これをもって私の終生の事業とするつもりであった。

▼私は全盛当時何を理想としたか

 米国のヴァンダービルト〔コーネリアス・ヴァンダービルト。一艘のボートによる海運業から身を起こした鉄道王〕は、この信託事業(フィナンシャル・ハウス)をやっていた。彼は株券を買うばかりではない。トラストを作って巧みに会社の整理をやった。彼はその会社の資本金を、株券の時価より十円安というようなことで減資をさせた上、若干の金を注ぎ込んで整理をする。整理がつけば株券の相場が上る、景気もよくなる。そうなったら株券を売る。彼は始終こういうやり方をしていた。しかし今はやらない。彼は主として鉄道会社の整理をやった。このようにして彼は成功し、ついに鉄道王と称されるに至ったのである。

 私はこういう事を聞いていた。そこで、くだらない会社の重役などになるよりも、この男らしい信託事業をやる希望であった。苦しみ悩んでいる所を整理してやるから、長くこの恩義を忘れない、乾兒〔こぶん〕ができる、勢力が張れる。これが私の全盛時代における理想であった。

 茅場町に煉瓦の建物を建てかけたのは、つまりこの信託会社(フィナンシャル・ハウス)の事務所にするつもりであったのだ。

 しかるに、結果は理想と異なり、今では私の方が他人の信託会社に収容されなければならないこととなった。

▼ナポレオンはなぜ敗れたか

 なぜ私が失敗したかといえば、要するに天下の大勢を見る明がなかったからである。まだ大丈夫だろうと思っているうちに、世は既に変わっていた。世界の金融が逼迫し高橋(是清)が外債を募集に行っても困難であったというような――。当時私は、会社の社長や重役のほかに知己がなかったため、海外の金融市場の趨勢を知ることができなかった。私が失敗したのは、要するにこれのためであった。

 そのとき私は大隈伯〔大隈重信〕から痛切なる忠告を受けた。私がもし伯の忠告を聞いたならば、恐らく失敗はしなかったのであろう。

 伯はこう言った。「名将というものは、予備兵をたくさん持っておらねばならぬ。それを持たないなら名将ではない。見よ、武力で全欧州を圧したナポレオンは、予備兵を持たなかったために、モスクワの一戦にて一敗地に塗れ、セントヘレナの孤島に流されて、哀れなる最後を遂げたではないか。ひるがえって大山〔大山巌〕大将を見よ、彼は遼陽の戦において、前軍からの援兵の要求にみだりに応じたりはせず、機が熟するのを見て徐々に、五百を一隊とした援兵を繰り出し、みごとに遼陽を占領したではないか。大山大将は綽々〔しゃくしゃく〕として余裕を有し、泰然迫らざる〔落ち着き払ってセコセコしていない〕ところは、実に一代の名将である。利巧だからといって必ずしも名将とは言えない。要は、予備兵を持っているかいないかの違いである。」

▼私はむしろ大隈伯に勝っていると思っていた

 〔大隈伯は続けて、〕「商売人の予備兵は現金だ。しかるに君は、現金がないというではないか。それでは名将の資格がない。株券ばかりでは駄目だ。それを売って三分の一は現金とし、三分の一を地面とし、残る三分の一だけを株券としておかねばならぬ。

 もともと富豪には、地面で成功した人と、株券で成功した人とがある。地面で成功した人の方法は、安い地面を買っておいて、高くなったら売り、ふたたび他の安い地面を買っておいて、高くなったら売る。株券で成功した人の方法は、安い時代に株券をウンと買い込んでおいて、高くなったら売って金にして、ふたたび安くなる時節を待って買い込み、高くなったら売る。これは安全にして確実なる貨殖法である。

 支那の葉子公〔?誰のことかわかりませんでした〕、米国のカーネギーの兄さん〔アンドリュー・カーネギー、鉄鋼王〕などは前者に属する。日本でも三井、安田などがそうである。しかし米国のヴァンダービルトのごときは後者に属する。彼は今でこそ鉄道王などと呼ばれて真面目に実業に従事しているけれども、かつては、株式の安い時代、技師に鉄道会社の内情を調査させ、株を買い占め、高くなったら売ることをした。彼が成功したのは、まったくこれである。彼は、実業そのものより株券が目当てであったのだ。

 このように、貨殖の道には二つの方面がある。君は、すでに獲た富を永久的に保ちたいのなら、ぜひとも、いずれか好む一法を執〔と〕らねばならぬ。さもなければ、前に言ったように、現金・土地・株券の三分法を執るほかない。」――このように、大隈伯は親切に心を込めて忠告してくれた。

 けれども私は、伯の忠告には従わなかった。何しろ当時、私は日の出の勢いであった。「伯の言われる通り、そううまく行くならば、伯自身がすでに何十倍もの富を作っているはずである。つまるところ、自分は説においては伯に負けるけれども、実行力においては優っている」と思っていた。

 大隈伯と会見したのは〔明治〕三十九年の夏、暑い盛りで、洋服の襟元から汗の流れるときであった。帰ってみると、その後はますます相場が高い。「やっぱり私の方が勝っているのだ」と、心の中でひそかに、伯を机上の空論家とみなしていた。

▼自惚れて判断の明を失っていた

 当時、私も決して大隈伯の説に感服しないわけではなかった。けれども、伯は売る時期を言わなかった。それを私が質問したら、伯は、「我輩は株屋ではないからそれは分からぬ。けれども、色々と天下の趨勢を説明してやるから、時期はお前の方で判断せねばならぬ。日本の財政はこうである。欧米の金融界はこうである。英蘭銀行〔バンクオブイングランド〕に預けてある日本の金貨はこれだけしかない。我輩は材料を供給してやるから、時期はお前の方で判断しろ」と言ったが、勝ちに誇って私はその時期を判断する明を失っていた。返す返すも私の罪である。

▼私は木曾義仲と同じ末路を演じた

 〔明治〕四十年の三月八日には取付〔とりつけ。銀行に預金引き出しが殺到すること〕がくる〔これに先立つ明治38年にも鈴木銀行に取付があり、そのときは辛うじて切り抜けたが、この明治40年の取付で鈴木銀行は倒産〕。その月の十一日に酒井静雄〔煙草王・村井吉兵衛の村井銀行理事〕と喧嘩する〔相場で戦って鈴久が劣勢となり、和解を試みるが決裂〕。それからバタバタと倒れた。

 金杉(金杉医学博士)と、馬越さん〔馬越恭平=まこし きょうへい、実業家、ビール王〕の二人は、「惜しいことだ。どうにかなるまいか」と、いろいろ助力をしてくれたが、大勢の赴くところは万馬が引いても変えられない。どうすることもできなかった。しかし三氏の厚意は永久に忘れない。

 クロポトキン〔ロシアの革命家〕は、「予定の退却だ」と言って、負けても多くの兵を失わず、堂々と引き揚げた。彼はエライ。あれがもしほかの大将ならば、生きて帰る者わずかに三人といったところであったろう。傲慢な義仲は、義経と戦って栗津ヶ原に敗れ、溝の中へ墜ちて一兵卒によって首をチョン斬られた。私も当時は天上天下唯我独尊を気取り、周囲の事情を□み得なかったがために、予定の退却はできず、兵を収めようとする頃には、味方はすでに粉微塵にされていた。

▼私はあくまで楽天主義である

 失敗したらその先はどうなるか。そんな覚悟は持っていなかった。ただどうにかできるだろうと思っていた。

 しかしこの考えは今でも変わらない。覚悟をして覚悟通りに行かなければ、いっそう失望する原因となる。ゆえに、「どうにかできるであろう」というのが一番よい覚悟であろうと思う。いわば私は楽天主義だ。楽天主義だから、あのような急劇な境遇の変化を受けても悪名も被らず、日を追ってますます先輩と交際し、今日あるのだ。もしも私が「失敗したらこうしよう、ああしよう」と深く心に決めておいてその通りできなかったならば、とうに悶死しているかもしれない。凡人ではそううまく覚悟のできるものではない。よく『実業之日本』などに「私が失敗したときの覚悟」などと言っている人があるが、あれはあとから付けた理屈だろうと思う。

 ただ私は、あくまで身を売りたくないと思っていた。食えないから身を売るとなると、昔のサンピン武士〔サンピン=三一。俸給が金三両と米一人分だけの下級武士〕にも劣るではないか。

 とはいっても、私にだって感情はある。栄枯盛衰にともなう人情の浮薄に、物の哀れを感じなかったわけではない。しかし、私はできるだけ物を軽く見る。昨日は招かずして私の門前に伺候した人が、今日は呼びにやっても来ない。こんな事をいちいち気にしていたら、壁に血染めの五言絶句でも遺してこの世を去らねばならぬ。「結局、頼むべきは我一人さ」、私はこの度の失敗によって、一層この感を深くした。

▼大隈伯はあくまで親切の人だ

 私が店〔鈴木家の設立した銀行〕を閉めたのは〔明治40年の〕六月二十六日であった。なにしろ、わずか百日ほどのあいだに一千万円以上の金(かね)が消えてしまったのだから、ずいぶんこたえた。とくに取付〔とりつけ〕には困った。閉店する二日前に大隈伯の所へ行って、伯の厚意と、自分が忠告に従わなかった不明とを謝し、「再び人間になったらお伺いしましょう」と決別した。そのときの伯の言葉は、「病膏肓に入っては、耆婆扁鵲〔ぎばへんじゃく=耆婆は古代インドの、扁鵲は古代中国の名医〕の妙薬といえども致し方がない。ただ死際(しにぎわ)を立派にしろ」と、またも道理ある忠告を与えられた。

 これよりも以前に、私が得意の絶頂にあったころ、伯に「ウンと小言を言ってくれる相談役のような人を世話してくれ」と頼んだら、「よろしい、田尻博士〔田尻稲次郎。経済学者、政治家、官僚〕などと相談して、誰か世話してやろう」ということであった。けれどもその後、私が行かなかったため、それきりになってしまった。また、満鉄〔満州鉄道〕の株を買うときも、いろいろ有利な注意を与えられた。決別後はしばらく行かなかったが、昨年の総選挙の際、「代議士となって新生面を拓くつもりだから」と頼んだら、相変わらず快く承諾して、おおいに助力を与えられた。伯は実に大人物である。

▼大度胸を有する安田善次郎

 大隈伯とは別種の趣〔おもむき〕をもって私が感服している一人は、安田善次郎〔安田財閥の創始者〕氏である。世間では残酷無道だとか言うけれども、あの人は度胸もあれば同情もある。鐘紡を二万株抵当にしていたから、二百万円という大金である。しかも時は十二月の二十五日である。三井(銀行)へ行っても、十五(銀行)へ行っても、住友(銀行)へ行っても、「さような大金は…」と、天下の銀行で一つも貸す所がなかった。しかるに安田(銀行)へ行ったら「貸しましょう。もっとも、無理算段をするのだから日歩〔金利〕は高いが、三日後に確たる返事をします」と言うのである。私が「よろしい、それなら利息は前金で払いましょう」と言って三日後に行ったら、一株一九〇円できれいに貸してくれた。「前金の必要はありません」と言われたが、利息はそのとき払った。

 あのとき安田が貸してくれなければ、呉錦堂〔ご きんどう、神戸の華商。鐘紡株で鈴久と対決〕との戦に大敗していたのである。安田が貸してくれたからこそ、ボロを出さずに済んだのである。世間では、私が安田の頭を殴ったとか、安田を恨んでいるとか言われているが、私は安田に感謝こそすれ、彼を恨むはずがない。

▼冬が去りまた春が来ることを確信している

 ここまで述べたとおり、私は不幸にして失敗した。けれども、もう一度立ちたいと思っている。年が年中そう思っている。中国の故事で、敵の頭を殴れなかったのを悔しがって自分の目玉をくり抜き、門の柱に叩き付けて、死んでも敵を睨みつけたという人〔呉の政治家、伍子胥〕の話がある。とにかく私も、寝ても覚めても一陽来復〔冬が去り春がまた来ること〕、捲土重来〔ふたたび盛り返すこと〕の意気を示すべき時期があることを確信している。

〔おわり〕

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次回は、「かつて私が一千万円を勝ち取った経路」を掲載します。

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【訳者(長谷川珈)より】

 鈴久の瞬間最大資産が現代でいえばいくらなのか、それは物価の換算方法によります。二兆円と言ったのは文芸評論家の福田和也氏で、当時の国家予算に対する鈴久の資産の大きさの割合を現代のそれと比べるという、だいぶ強引な換算方法です。しかしともかく、人の想像を超えるほどのたいへんな資産であったことがわかります。数百億円~数千億円と考えた方が妥当かもしれませんが、ここではキリよく、株で兆った男ということにしておきましょう。
 〔なお、「兆る」というのは資産一兆円を築くことを指すネットスラングです〕

「成金」と最初に呼ばれた人である鈴久の行跡については、紀田順一郎『カネが邪魔でしょうがない 明治大正・成金列伝』(新潮選書)などにくわしく、またネット上にも情報があるので、ここでは詳述しません。

 ここに現代語訳したのは、雑誌『実業之世界』に三篇続けて掲載された、本人による回想記の第一番目のものです。

 明治四十二(1909)年五月号p94-97 「余が失敗時代の回顧と楽天主義」 ← 今回掲載
      同六月号p6-12 「嘗て余が一千万円を勝ち得たる経路」 ← 次回掲載
      同七月号p45-52 「古今未曽有と称せられたる予が全盛当時の活劇」 

 三編合わせても19ページ、それほど長い文書ではありません。しかし現在手に入る書籍には収録されておらず、ウェブ上にもない。あるブログ記事〔現在は消滅してしまいました〕でこの文書の存在を知り、どうしても読みたくなったので、国会図書館でマイクロフィルムのコピーを取ってきました。

 最初は、PDFをそのままアップロードしようかと思いましたが、状態のよい資料ではないので、字が潰れていて非常に読みづらい。では、テキスト入力してアップロードしようか、と次に思いましたが、明治期の日本語は読むのにだいぶ骨が折れる(少なくとも私には)。どうせなら、ついでに現代語訳して読みやすくしようと思いました。

 原文を読みたい方は、国会図書館で閲覧・コピーできます。また、国会図書館の利用登録をすれば、在宅のままオンラインでコピーを取り寄せることもできます。

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